やはり日本国憲法は改正しなきゃ

by 還暦爺

「国旗掲揚に起立もしない、国歌斉唱も拒否する」
自分の家庭でやるならまだしも、「教育者として教育現場で子供達に自分達の信条を押し付ける」このような教師に対する処分について最高裁はいつまでも曖昧な判断を繰り返しているように見える。

処分を受けた教師や彼らを支援する団体の人達が裁判に赴く姿をテレビが捉えていたが、なぜだろう、彼らはさながら凱旋した将軍や軍人たちのように見える。実に高揚し誇らしげに微笑んでいるのだ。支援する団体の人たちも凱旋将軍を迎えたときのように熱狂している。

彼らは一体何に勝利したのだろう。一体何を手に入れたのだろう。
あの熱狂はどういう心情によってもたらされるのだろう?

この光景が思い出させるのは、北朝を筆頭とする共産圏国家のテレビ放送である。
「我々の国は世界の楽園である」「我々の指導者は最も知性的で素晴らしい」
このおそらく作られた無知は悲壮で滑稽でそして憐憫の情を誘う。

かつて似たような光景を見たのは70年代の学生運動である。
「建設のためにまず破壊しなければならない」「日帝・米帝打破」「資本主義は悪だ」
誰かが言っていた。「共産主義運動は背泳ぎでゴールを目指して泳いでるようなものだ」と。
既成概念を否定することに価値を見出し、若さと未熟な理想論でゴールも知らず空を見上げながら泳ぎ続けた学生運動家の熱狂とそっくりである。

あの熱狂は一人覚めることを許さない。それ程交わされる言葉はむなしく実はもろいものであり、共産主義につきものの「総括」という粛清を伴う恐怖でしか維持できない熱狂であった。人間と生命という”儚いもの”に絶対的権威を与えた混迷の時代の始まりである。左翼人権派が「人命は地球よりも重い」と不思議な言葉を使い、「公共の利益が個人の権利主張のもと顧みられない時代」それが今でも続いている。

あの熱狂する教師と支持者達は「日本国憲法が保障する基本的人権としての思想・信条・信教の自由」をたてに、そして傲慢なことに「子供達の教育ために」とまで言って国旗掲揚・国歌斉唱に反対することの正当性を主張する。それに対し最高裁はなんら明確な判断を下せない。

実は日本国憲法には、ちゃんと「基本的人権の保障は”公共の福祉に反しない限り”保障する」となっているのだ。
戦前なら「教師が自分の主義主張で校則を破るなんてとんでもないことである」と、まともな大人なら即座に答えたことだろう。それが”公共の福祉”である。もっと簡単言おう。”公共の福祉”とは”天下国家のため”つまり”日本と日本国民のために生きる”ということであり、憲法に書いてあるとおり 「公共の福祉は個人の人権を凌駕するもの」である。
グローバルな人権派を気取るのは個人の自由である。だが日本人以外に「国旗の掲揚に反対し国歌斉唱に異議を唱える」人間などどこにも居はしない。(例外的に武力で侵略されている国は別)

この違いが判らない限り教師と最高裁の迷走は続く。
交通違反しておいて逆切れする。救急車をタクシー代わりに利用する。子供の不始末親の不始末を学校のせいにする。

日本国憲法を制定した戦後すぐの時期、この”公共の福祉”という言葉は日本人には共通理解が成立していたのだろう。しかし残念ながら戦後60年を経て”公共の福祉”なんて誰も説明できない時代になってしまったようだ。ここでも日本国憲法は見直す必要がありそうだ。

 

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