チベットの悲しみ

侵略国・中国の弾圧に抗議して『焼身自殺』するチベット僧侶。
一体これは何なのだろう?

人が自分の命を賭けて、それもわが身に火を付け燃やすと云う、
凄惨な方法で衆人環視の前で死んでゆく姿を正視できるものはいないだろう。

だがしかし、そう、だがしかし、それで何かを変えることができたのか?
人の心を持たぬ侵略者相手に、自ら炎と化してその心を動かせたのか?
不殺生を戒律とする仏教徒よ、自らの命はその対象とはならないのか?

人は自らの肉体と精神を守るようにできている。
そしてその働きが『苦』を生みだし人生をつらいものにしている。
だが、それを超えたところにまた『悟り』という救いがあるのが仏教である。
『苦』を超えるとは何も感じなくなることではない。
全てを否定して超越したふりをする事ではない。

仏教徒として生きるのに、他者を救えなくては何の意味も無い。
自らの身体に火をつけるより、
理不尽な圧政者に抗議し、その銃口の前に倒れる道を選べ。
それでだめなら銃をとってもよい。虐殺者を前にすくんではならない。
一人ではダメだ、みなそろって銃を持ち、敵の銃口の前に立て。
仏教者はその先頭に立ち、阿修羅と化し、壁となり皆の盾となれ。

わが身を焦がすだけの姿は仏教者にはふさわしくない。

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