人はなぜ生きるのだろう?

『人を殺してはいけない』無邪気にそう口にする人を信じられない。
この手の人の大半は「自分は殺されたくないから」というが、この人たちには逆にそれが「人を殺してはならない」理由を否定することになる。なぜなら「自分の命を守るために人を殺す」ことは当然だからである。

「なぜ人を殺してはいけないのか?」という質問にこたえ得るのは、まず第1に『神の意志』だと言いきれる神を信じる人達だ。
しかし、その人達でさえ、神の教えに従って、自分達の宗教を否定する者を簡単に殺めるのだから、何をかいわんやである。
残念ながら、他の宗派の人や部外者を決して殺してはならないという神を掲げた宗教は知らない。

「なぜ人を殺してはいけないのか?」という質問に2番目に答え得るのは、「生きていることが肉体的・精神的快楽で最高の価値がある」という人だ。つまり「死は最高の価値の喪失だ」と言い切れる人だ。体験的に知る価値を持つ人だ。
例を挙げれば恋の絶頂期にある男女のような存在だ。
ただしその恋の絶頂期を絶え間なく続けることができればという条件が付く。それでもいつか死は訪れる。死で失われるものを最高の価値と呼べるのだろうか?

「なぜ人を殺してはならないのか」という質問に3番目に答え得るのは、仏教のような人間主体の宗教である。その宗教で「人を殺してはならない」という戒律があればよい。これは宗教でなくてもよい。思想・哲学で「人を殺すべきではない」と信じさえすればいいのだ。
ただしこれは『信』に基づくもので自明のものではない。

 
「なぜ人を殺してはならないのか」という問いに答えるのは本当はとっても難しいのだ。多くの人が「無宗教です」と胸を張る異常国家・日本人は特に気をつけなければならない。


なんでこんなことを言っているのか?
そう、「重複障碍者に安楽死を」といって19人の障碍者の命を奪い多くの障害者を傷つけた事件だ。
そのニュースが流され、キャスターと評論家が「なぜこんなことが起きたのか?」と話している。だが一体何を話しているのかほとんど理解できない。彼らの話を拒否感を持って眺めている自分がいる。その理由もはっきりしている。


もう我々もいい年になった。いつ何があってもおかしくない。
そんな時必ず誰かが「認知症になってまで生きたくねーなぁ」
その声にみんなそろって賛同するのだ。

だがちょっと待ってくれ、今度のニュースで考えたのだ。
「認知症になってまで生きたくない」わたし達は、「認知症になったら死んだほうがましだ」と云っているのだ。
そんな俺たちに今度の事件について何かを語る資格はあるのか?


もとより認知症と重複障害が同じものかどうかすら体験するすべはないのだが、
せめて無宗教であることを誇りにする人間は口をつぐんだ方がいいだろう

 

「なぜ人を殺してはならないのか」この問いに確信をもって「殺してはならない」と答えられる人は、前述の2番目と3番目をミックスして『生の哲学』を築き上げた人しかいないだろうと思う。

それでもまだ、健全な思考力が前提になるのだが・・・・・。

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