脱原発と体罰と軍隊と

【脱原発】
脱原発デモを繰り返した活動家たちが(反省)討論会。
討論会のチラシには「デモは『無駄』? 集会は『徒労』?」といった言葉が並んでいたようですがどんな結論が出たのでしょうか。

主催は「みんなで決めよう『原発』国民投票」という”市民グループ”でメンバーや学者ら七人が活発な議論を交わし、一般参加者60人ほどが熱心に耳を傾けたそうですが、おおむね
「有権者は身近な経済に目が向いた」「脱原発政党が一つにまとまれなかった」「我々の声が一般の人たちに到達するにはもう少し時間がかかる」「広く支持を得るにはわかりやすいキャッチコピーを作るなど工夫が必要」「衆院選は解散が急で準備が出来なかった。参院選に向けて準備を」などという意見が多かったようです。

どうもまだ本質からずれているような気がするのです。
「脱原発」主張は「『原発は危険』だから『即刻停止、再稼動禁止、新設反対、全原発廃棄』」でしょう?
討論会参加者の発言を見ても「『原発の危険性』を、なぜみなは理解しないのだろう?」と首をかしげている様子が目に見えるようです。

かくいう私も以前は原理主義者(基本は今でもそうですが)で、「安全を保障できない原発は廃止するべきだ」と考えていました。今でも「無いに越したことはない」と思っています。

ただしそれには「安全で安定的且つ経済的な代替エネルギーを確保できるか?という条件が前提になると考える」というだけなのです。

たとえばこの条件の中の一つですが、「経済性を考慮する必要は無い」というのであれば、日本国民の総意として「多大な税負担をするか、若しくは、ひと昔ふた昔前の生活水準に戻るのもやむなし」という意見集約があるのであれば「原発即時廃止」に賛成します。
再生可能エネルギーで代替可能という意見もありますが、その安定性・安全性は、はなはだ心もとないもので、この場合も「その他の環境問題、生態系破壊もやむなし。計画停電も受け入れる」と意見集約されるのであれば賛成します。

しかし今の「脱原発運動」に、そのような前提条件を考慮している節は見当たりません。
闇雲に『原発は危険だから』という主張だけを振りかざす「脱原発運動」には組することはできないのです。
そのような「脱原発」を掲げる政党は無責任に思えて投票しなかったのです。
今回の選挙の敗因もそこにあり、国民の総意として「今の脱原発運動」に明確に「拒否」の姿勢を示したことを認めるべきではないかと思います。

 

【体罰】
先日起きた大阪の高校バスケ部員の「自殺」問題は「体罰の是非」が問われていますが、似たような原理主義的な判断が問われています。
「体罰は絶対に許さない」と主張する方々がいます。多数派かもしれません。
では子供の教育の現場における体罰と、死刑を含む犯罪者への処罰はどう違うのでしょうか?

その前にクラブ活動などの「指導・教育」とする体罰について考えてみます。これは「罰」ではありませんので「必要かどうかではなく受け入れるかどうか」という問題になりますが、この「日本式の教育」は世界では異常・異端でしょう。
この手の体罰はおそらく「軍隊」が発祥なのでしょうが、その軍隊そのものが人権を無視した特殊な存在ですから、そこで行われる教育なるものが一般社会に持ち込まれてはならないと思います。
(この軍隊式教育については後で触れます。)

部活やスポーツ育成の場でのスパルタ教育(これ自体が軍人教育です)は、長く広く日本社会で当然視されて来ましたが、この風潮はやはり「教育力・指導力の未熟さ」と認識し、廃止する方向に改めるべきでしょう。

さて教育の現場には別の問題があります。
「ルールを守らない」「乱暴をする」「非行に走る」「いじめをする」
このような場合、言葉だけの指導・教育が解決を遅らせ、本人や被害者の人権が損なわれることがあります。

これは一般社会の犯罪者に対する処分と同じく「矯正という目的」も含んでいます。
この場合の体罰は容認されるべきだと考えます。

教育の現場であれ家庭であれ、子供たちの将来を考えるなら「厳しい躾」というものは必要であり、「罰則による矯正」というものはどのような社会においても支持されると考えます。
「体罰は絶対にダメだ」といわれる方にとって「犯罪者の身体拘束」は体罰ではないのでしょうか?

 

【軍備・軍隊】
「軍隊における体罰」は少し違うような気がします。
連合艦隊指令長官:山本五十六元帥に、
【やってみせて、言って聞かせて、やらせてみて、 ほめてやらねば人は動かじ。
話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず。
やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず。】
という名言があります。ただこれはどうやら士官教育についてのお言葉であり、下士官についての教育論とは少し違っているのでしょう。
それでも日本軍のトップでさえ「軍隊式教育」に危惧を抱いていたということは間違いないでしょう。

しかしながら、死の恐怖を乗り越えて戦わなければならない「軍人・軍隊」というものは先ほども述べましたが存在自体「非人道的組織」です。
相手を殺さなければこちらが殺される、仲間が殺されるという世界で、「反射的自衛行動」が必要であり、組織の命令には「絶対服従」を強いるには、それなりの強制的矯正、人格否定を行わなければ「軍隊・軍人」という組織は成立しないのだと思います。

普通の人間を、「軍人」という「非人間」に作り変えるには「非人道的体罰」による矯正が必要なのでしょう。

こういうと、「軍隊なんかあるからいけないのだ」という人たちがいます。
いわば「軍隊があるから争いが起きる。無ければ平和になる」という『原理主義者』です。

T島女史のようにテレビで、「日本が軍備を放棄すればほかの国も軍備を放棄するのよ!」とまで言われると、原理主義者である私でも、女史の主張は「原理主義を超えた狂信者」に思え、苦笑せざるを得ないのですが、「軍隊の無い世界」が可能であればそれはそれで望ましい事です。

しかし残念ながらこれは世界が民族、地域で区切られた「国家」単位で構成されている現状では非現実的な話です。
ただヨーロッパが、その国家の枠を超えた共同体「EU」で壮大な理想に向かって実験を行っている途中です。いずれ世界が一つの共同体となる時代が来れば軍隊は必要なくなるでしょう。

アジアもそのようになればいいのですが、政治体制の違い、歴史認識の違いと困難を極める問題を抱えていますのでなかなか難しいのではないでしょうか。
「廃軍備原理主義」の立場を取られる方は、日本政府に向かってではなく、まず「軍備増強」「他国侵犯」をする国に向かって「脱軍備」提案していただければと思います。

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